INFJの日記

日々思うことを書きます

「自分には価値がない」と感じていた私の人生(前編)

 

私は今現在
34歳になりますが、
私の人生というのはなかなかに
生きづらい人生で


他の人から見ても
さほど羨ましいとは言えない人生だったと思います。


今はこうやって自分の人生を振り返りながら
「なんだかんだ自分の人生ってこれで良かったんだな」
って思いながら
こうやって文章を書いていますが、


幼少期から今に至る現在までも
孤独なのは大して変わりません。


孤独って言うと聞こえは悪いかもしれませんが、
一人で居るほうがラクなんです。


“寂しい人だ“と言う人もいるかもしれません。


でも私にとっては
自分のことを理解してくれてない人と
時間を共にしている方が辛い
ということが多かったのです。


そんな人もこの記事をご覧になってる方々の中には多少いらっしゃるんじゃないでしょうか?


仮に居なくても、
その想像だけで私は少しだけ心強くなれます。


少し話がそれましたが、
簡単な私の今までの経緯を
お話しします。


私は福岡県のとある漁師町の家庭に生まれ、
お父さんはもちろん漁師で
三人兄妹の長男として育ちました。


幼少期から物静かで
割と消極的な性格だったと思います。


両親はおしゃべり好きで
声も大きく、耳への刺激が強い感じがしたからか
声を大きくして喋るのがいまだに苦手です。


小学校1年生で早速大便を漏らし
大変恥ずかしい思いをしましたが、
その時は子供ながらあまり重く受け止めてなかったのか
普通に学校に通っていました。


当然と言えば当然の行動をしただけですね。


そのまま6年間物静かな私は
通知表で「〇〇くんはいつも静かで・・・」
という私の中ではお馴染みの
先生からのコメントをもらいながら
12歳まで育っていきました。


中学に入ってからですが、
親の勧めにより、私は未経験からの
剣道部に入部しました。


毎日こんなキツいスポーツは
生まれて初めてだと思うような練習メニューでした。
(だいたいどの部活もきついんでしょうけど・・・わかってくれる方いるかな?)


練習に励みながらも、私は試合に出たところで
勝つことも極端に少なく、
その時は正直恥ずかしくてやめようと思ったことが何度もありました。


中学3年間の中で最もそう思った時がありました。


中学2年の時、また大便を漏らしてしまったのです。


しかも、そのタイミングは残酷にも
剣道部の合宿の時に
同じ部員の女の子に告白して返事待ちの時だったので
その時は本当にもう部活辞めたいって言うか


死にたい


って思ってました。。
この世から消えていなくなりたい。
この世界がゲームだったら、1個前のセーブポイントからやり直したい・・・


そんな私の願いは、当然ながら叶えられることもなく
私は学校生活を続けざるを得ませんでした。
学校に行きたくないと言っても
親はあまり話を聞いてくれず学校に行かされ
部活も、先生や親が辞めさせてくれませんでした。


学校の中では他の子たちと
すれ違う時も、私を避けるように歩き、
「くせっ」と後ろから声が聞こえる。


今思えば、「子どもとはそう言うものだ」
なんて言えそうですが、
当時の私としては毎日心を引き裂かれるような思いで、
「これがいつまで続くかわからない」と言う絶望があり、
「自分はなぜこんな大変な思いをしなければならないのだろう」
と向けようのない悲しみと怒りを感じていました。


その当時はヴィジュアル系バンドにハマっていて
叩きつけるような激しい音楽によって癒されて?いたのだろうと思います。
学校生活はたいして変わることはなかったのですが。


そんな暗黒の中学生活も、終わり頃には
何人か僕と話してくれる人たちが周りに居てくれて、
何とか人並みに中学を卒業できたような気がします。


高校では大して関心もなかったのに
「友達が行くから」「就職率100%だから」という
薄っぺらい理由で工業高校の電気科に入学し


“クラスに女子がいない“という一般的な男子としては
青春を棒に振ったような人生の選択でしたが、
ユーモアあふれる友人たちに恵まれ、3年間無遅刻無欠席で
学校に通うことができました。


就職率100%の高校に真面目に通いながらも
「私は工業のことなどまるで興味がないのだ」と言うことを悟り、
電気科の科目で欠点を取ることが多く
次第に「機械を見ながら仕事したくない」という気持ちが強くなり
進学することに決めました。


親の期待を裏切り、
進学した先は医療福祉の専門学校。
当時自己啓発書を読みまくっていた私には
社会福祉“という言葉が深く刺さり、
ソーシャルワーク科に入りました。


座学に加え、介護施設やその他病院などでの実習もあり
緊張感のある3年間だったと思います。
クラスメイトは10人程と少なくはありましたが
仲は良かったので卒業まで楽しく過ごすことができました。


卒業してからは、精神病院に契約社員として入社。
専門学校の3年生の時に精神科の科目があり、
精神科のデイケア等で経験を積むと
精神保健福祉士の試験を受けれるということで
その職場を選びました。


ただ、その精神病院での勤務は私には合っていないような気がして、
よくいう理想と現実が違うパターンですね。


そこで働く意義が見つからないまま、
精神科の急性期病棟で看護助手として身を置き、
たまに精神科デイケアで実習させていただくという感じでした。


そういった形態で働いている中で、
精神保健福祉士を取る意義を見つけられず、
純粋に精神科医療の中で、
一つの歯車として働いているイメージが湧かなかったのです。


いっぽう、人生の意味やこの世界のこと、
いわゆる哲学的なことはめっちゃ考えていて、
その考えがそのうちに
今でも説明に困るのですが
「何でそういう考え方するの?」っていうぐらいに
“妄想“と言われる域までいっていました。


例えば、
「私が咳をすると、それはどこかで誰かが人の悪口を言っている証拠」
「自分と目が合うと、その相手が何かしらのカルマを負ってしまう」
とか、今振り返っても何でそうなるの?笑
っていうぐらい意味がわかりませんが、
当時の私としては、意識の力が強くなるとそうなるという理論だったみたいです。

 


ストレスもあったのかも知れません。
詳細には言えませんが、その当時、
職場で大きなミスを犯したり
付き合っていた彼女に二股をしていたことを打ち明けられたのと
なんとその相手と結婚するということだったので
私は本当に訳がわからなくなりました。


「俺はどこで何を間違ったんだろう?」


その時私は、強くそう思いましたが、
何をどうすべきか分からず、
哲学的に「自分は真理に辿り着いたから、もう死んだっていい」
ということから何度か自殺企図を繰り返しました。


車で走行して電柱にぶつかったり、
多量服薬かましたり(内容は風邪薬とか)
三日間飲まず食わず、不眠とか、
気が向いたらいつでも切腹できるようにと枕元に包丁に置いて寝ていたりと
実際に実行する勇気はなかったですが、
本当に病んでいたと思います。


当時一人暮らしをしていたのですが、
アパートの駐車場に私が契約していた場所
見知らぬ車が数日間止まっていたもんですから、
私にはそれが「自分に対する重要なヒントがあるのではないか」
と謎に思い立ち、
アパートに備えてあった消化器でその無断駐車の車両の窓ガラスを叩き割り、
車内を詮索するも
大したヒントは見つかりませんでした。


プリズンブレイクを以前に観ていて、
確か主人公のマイケルには“潜在静止の機能障害“
みたいなのありましたよね?
知ってる人いるかな笑


とにかく、余計な考えが止まらないんですが
そのマイケルに影響されてか、私にもそういう気質があるんだろうと勝手に思い込み、そういうド派手な行動に至ったわけです。


何も大した発見ができなかった私は
疲れて真冬の駐車場で寝てしまいました。


朝になると私は救急車で運ばれ、一度総合病院に運ばれましたが、
確かすぐに精神科の病院に措置入院になったと思います。
(すみません、記憶が曖昧です。)


その時も私は親に迷惑をかけてしまい、
改めて居なくなりたいと思っていました。


何もまだ親孝行も出来ず、
迷惑ばかりかけて、入院中も自分の存在意義がわかりませんでした。


「俺の人生って何なんだろう・・」


そんな考えはいまだに浮かびますが、
マイナスの感情はないです。
むしろ前向きで興味の方が強くあります。


しかし精神科病院に入院した時の私は
「まさか自分が入院するとは」
「人生終わった」
とセルフイメージはかなり下がっていました。


措置入院自体は確か1週間弱ぐらいで、
その後は急性期病棟で3ヶ月ほど入院していました。


その中でさまざまな人と出会い、
入院に至るさまざまな背景を知ったり、
なぜか居心地が良くて、
私が退院する時、
たくさんの患者さんが見送ってくださって、
「もうここに帰って来ちゃダメだよ」
って言われたのは鮮明に覚えていて、
私は恥ずかしながら大泣きしていました。


とりあえず、この22歳までのエピソードで大変長くなってしまいましたので、
今回はここまでとさせていただきます。


このような長文、読んでくださいまして
誠にありがとうございます。