INFJの日記

日々思うことを書きます

生きづらさの原因

私は性格判断とか占いが好きで、
よく自分だけでなく周りの人にもやってもらったりして、
自身の研究の足しにしている変態ではあるんですが、


まず私の性格・タイプ診断を列挙していきますね。


MBTI診断・・INFJ(提唱者)
エニアグラム・・5w4(トライタイプで言うと549の隠者)


あとは金星人+、金のインディアン座、
天秤座のA型・・ぐらいでいいですかね?笑


占い得意な人は誰か僕を占ってください。笑


正直、別にこんなに列挙する必要なかったと思うんですけど、
言いたかったのは
私は確かにMBTIの提唱者型の特徴に当てはまっていて、
その中の一つに


「自分がわからない」


というのがあったんです。


確かに!!!


と心の中で深く納得しました。


アニメ・漫画で言うと、
私の大好きなHUNTER×HUNTER


幻影旅団の団長、クロロ=ルシルフル
キメラアント編でのメルエム


が該当するそうで、


確かに!!!!!!


と、ここでも納得しました。
おこがましいですか?笑


話がそれましたが、
逆に周りの人たちを見ていると
やりたいこととか、
あーしたい、こうしたいっていうのがあったり、
何というのか、気持ちがはっきりしていて
羨ましいなとずっと思っていたんです。
ていうか未だにそう感じます。


そしてそんな自分の特徴が
自分の生きづらさの原因だったんだなぁと
人生を振り返ると
そう感じざるを得ません。


みなさんはMBTI診断やったことありますか?
よかったらコメントなどで教えてください^ ^
↓やったことない人はこちらから是非↓


同じくINFJの方が居ましたら
是非お話ししたいです笑


さて、こうやって私は記事を書いていますが、
未だに自分のことがよくわかっておりません。


が、何か使命感のようなものにせき立てられてて、
文章を書くことは苦手ではないので
ぼちぼち誰かのお役に立てるような発信が出来たらいいなという感じで
記事を書いています。


MBTI診断については最近知ったのですが、
提唱者型の適職の中にカウンセラーの項目がありました。


前回の記事で少し書いたのですが、
20代半ばで心理カウンセラーの資格を取得した私の行動は
あながち間違ってはいなかったようです。


とはいえ20代半ば。
相談に乗りたいし役に立ちたいけど、
人のことがまだよく分かっていない、
どうすればいいか分からない・・
なんだかんだ、その時は自信がなかったんです。


30歳超えたあたりから真面目にやってみようという
経緯から今に至りますが、
ご覧の通り、大して何も出来ていません・・苦笑


しかし、1年半ほど前に診てもらった
よく当たるという霊視もできる占い師さん曰く、
「あなたの魂は紫色で非常にスピリチュアルで勘が鋭くて、人助けとかカウンセラーとか向いてます」
とのことだったので
やはりカウンセラーなんでしょう。


我ながら聞き上手ではあるという自負があります。


しかし、そんなカウンセリングとか受けたことないし
周りにやってる人とかいないし、
「じゃあそういう人のところ行って話聞いてこいよ」
という声が聞こえてきそうですが、
そういう行動をまだとっていない自分は甘いのでしょうね。


ビジネスにおいては割とポンコツめな提唱者だそうですが、
私もいろいろ調べながら少しづつ行動してますので、
何卒温かく見守りください。


エニアグラムで言えば、
私は5w4で「因習を打破する人」だそうなので、
本当に自分の中で、あるいは他の人、
メンターみたいな人に見出していただくしかなさそうですね・・・


何か日々新しい発見や学びがないかと、
今日も楽しく生きてます。


何だか取り留めのない
記事になっちゃってますが、
ここまでお読みいただき、
誠にありがとうございます。


コメントやイイねも
励みになりますので、
是非お願いしますm(_ _)m

 

自分には価値がない」と感じていた私の人生(後編)

 

この記事では今現在の私に至るまでの
個人的に波瀾万丈な人生を振り返る回となっております。
ご興味のある方は是非(前編)からお読みいただければ幸いです。


前記事からの続きになりますが、
精神病院を退院してからも、
私は精神科デイケアに通っていました。


その当時の私としては
職員としてではなく、
患者として、またいつか精神保健福祉士を受けるかも知れないから
という勉強の一環みたいな感じで参加していました。


が、そこで他の患者さんと過ごしていて思ったのですが、
「ここは俺のいる場所じゃない」
と感じるようになったのです。


今振り返っても必要なかったとは思いますが、
好奇心の強い私のことですから、
何事も経験したかったのでしょう。


デイケアに行かなくなり、
家でじっとしながら過ごす毎日。


暇で暇で逆に気が狂いそうでした。
親からは家に居ろと言われていましたが、
落ち着かなかったのです。


何も社会の役に立ってない気がして。


そんな自分が許せなかったんです。


退院しての1ヶ月は療養期間と言うか、
ニートの期間があったわけですが、
「何でもいいから仕事したい!じゃないと自分がダメになりそう!」
という思いから、
学生時代にアルバイトしていたスーパーで
またバイトで働くことにしました。
そうです、出戻りです。


当時の私としては、働ければ何でも良かったのです。
とりあえず、少しでも自分の存在意義が欲しい・・
大袈裟にいうとそんな感じだったのでしょう。


学生時代に3年間バイトしていたので、
慣れていたこともあり、
さほど仕事に苦労することはなかったのですが、
いつも心に引っかかる何かがありました。


なんでもないフリをしていたのですが、
親戚たちの目を気にしていました。
「またここで働きよるんか」
という言葉とともに怪訝な表情を浮かべる親戚。


「うん、そうよ」
の他に、大して言葉が浮かばなかったことを覚えています。


なんだかんだで10ヶ月ほど働き、
「このままではいけない」という思いが膨らみ、
私はまた求人情報を漁ったり、
市の職安に出向きました。


行き着いたのは高齢者の介護施設でした。
送り迎えのある、いわゆるデイサービスというやつです。


福祉系の専門学校を出たこともありますし、
その経緯を蔑ろにしたくなかったんだと思います。


真面目に努めて実務経験も積めば
今度は社会福祉士の受験資格も貰えるんですから。
とはいえ、当然ながら最初から相談員などさせてもらえるはずもなく、
介護職員として入社し、
おじいちゃんおばあちゃんの入浴介助、運動補助、
レクレーションなどを主にやっていました。


給料も少なくて大変なこともたくさんありましたが、
それでも私の中ではやりがいのある仕事だったと思います。
2年目の途中から相談員をやらせていただけることになりましたが、
読んで字の如くの“相談“業務みたいなのは特にありませんでした。


施設にもよるとは思いますが、
介護施設における相談員というのは、
だいたい事務的な業務になるところが大半だと思います。


それでも身になることがあればと
忙しく働いていたことを記憶しています。
そんなデイサービスの勤務時代に
私はプライベートで大きな問題を起こしてしまいました。
あえてここでは伏せておきますが、
人殺しなどはしていないので安心してください笑
(なんとなく察せるかな?)


その問題のために私はお金がいるようになり、
3年間努めていたデイサービスを辞めることに。
ちょうどその頃、通信で心理カウンセラーの資格を取得しました。
私の人生にこれから必要になるだろう、と強く思ったからです。


次に訪れた職場は比較的稼げる、
誰もが知っているような自動車会社の工場で
車を作る仕事に就きました。


塗装が終わったばかりの車両に
細かい部品を取り付けていく工程だったのですが
専門学校に入学する前に
“機械を見ながら仕事したくない“と思っていた私が
工場で働くことに違和感を覚えていました。
が、仕方なかったのです。


その時はお金が必要だったので。


二交代制の職場で生活サイクルも狂いがちで
口内炎も良く出来ていました。
「ここは自分の居場所ではない」と工場に勤務し始めた時から思ってはいましたが、一応その期間工を満期2年努めました。
その工場時代の勤務終わりがけに
また大便を漏らすとは思いませんでしたが・・


しかしその時は
トイレに行く途中でしたし、
パンツは汚染しましたが何とか隠蔽し、
誰からも何も言われなかったので自分からカミングアウトすると、
周りの誰も気づいてなかったようで、
“ウンコマン“と呼ばれるようになりましたが、
私の中では負い目のような気持ちはありませんでした。


しかし、自慢するわけではありませんが、
学校や職場でこんなに大便を漏らす人は他にいたでしょうか?
いたらコメントで教えてくださいね!


そんな胃腸の弱い私は
また介護に戻ることに決め、
今度は施設に直接雇用ではなく
派遣という形で働くことにしました。


派遣先はだいたい特別擁護老人ホームとか、
病院の認知症病棟などを派遣会社が受け持っていたようですから、
基本重度めの派遣先だったのでしょう。


私はその特養に半年と、病院の寝たきりの高齢者のいる病棟で
身辺介護に2年半携わりました。
当然の如くオムツ交換はあります。
もちろん夜勤や看取りもありました。


働いているなかで思うことはいろいろありましたが、
「自分はこの仕事は一生はしないな」
という思いはずっとありました。


なぜ介護に戻ったかというと、
福祉系の専門学校を出たし、親やばあちゃんのお金で
入学させてもらった分、裏切れないと思っていたからです。


しかし、福祉の面で環境でこれだという職場になかなか出会えない・・
実際に今福祉業界でお勤めの方としてはあるあるのテーマだと思います。


そんなモヤモヤした思いをずっと抱えながら、
気分転換に海岸でのゴミ拾いのボランティアに参加しました。


その団体の参加者はさほど多くはなかったのですが、
仲良くしてくださる方が数人いて、
その方々と食事に行ったのですが、
「ゴンくんは介護よりも人を癒す仕事の方が向いてるんじゃない?」
と言われ、その中の一人の方が通っているという
もみほぐしのお店でのセラピストを勧められ、
今に至ります。


あと4ヶ月ほどで
もみほぐしのセラピストも3年になりますが、
ご指名も月に20件程ではありますがいただけるようになり
ぼちぼち稼げてはいます。


そんな私が今、
新しく挑戦したいなと思っていることは
“心理カウンセラー“のような?
仕事をしたいと思っています。


こうして文章を書くことも
もちろんやりたいことなのですが、
こうした記事を少しでも読んで、
どこか親近感でも湧いてくれたら、
私は嬉しいなと思います。


是非思ったことなどがあれば、
コメント欄に書き込みお願いします。
皆さんの声も聞かせてください。


こんなにダラダラと長く話して、
私が言いたいことというのは
どんなに人生が生きづらくても、
“諦めない“ことと“諦めることが大事“
ということです。


矛盾してますね。笑


諦めないというのは、生き辛くても、
少しでも楽しみを見つけて生きること。
「きっと良くなる」ってどんなことがあっても思うこと。
我々のような人間のことを知らない人からしたら、
狂気の思考だと思います。笑
なぜか不幸の連続だったっていう方は他にもいるでしょう。
ただ、それが不動の強さであると、
私は34年生きてきて実感しています。


諦めることが大事というのは、
周りからの期待があっても、
あるいは自分への過度な期待があっても、
出来ないことは出来ないと明らかにすること。
「諦めるとは明らかにする、明らめる」
と、どこかの誰かが言っていたのを覚えています。
つまり、自分とはどんな人間で何が出来て何が出来ないのかを知り
出来ないことや弱い自分がいることは諦めて、
できることを少しづつやっていきましょうって話ですね。


最後に偉そうなことを申しましたが、
もう今の私は自分に価値がないなんて思っていません。


これから少しづつ、
日記みたいな、気づいたことや学んだことを
記述していきたいなと思います。


ここまで大変な長文をお読みいただき、
誠にありがとうございました。


イイね!とか頂けますと
大変励みになりますので、
何卒よろしくお願いしますm(_ _)m

「自分には価値がない」と感じていた私の人生(前編)

 

私は今現在
34歳になりますが、
私の人生というのはなかなかに
生きづらい人生で


他の人から見ても
さほど羨ましいとは言えない人生だったと思います。


今はこうやって自分の人生を振り返りながら
「なんだかんだ自分の人生ってこれで良かったんだな」
って思いながら
こうやって文章を書いていますが、


幼少期から今に至る現在までも
孤独なのは大して変わりません。


孤独って言うと聞こえは悪いかもしれませんが、
一人で居るほうがラクなんです。


“寂しい人だ“と言う人もいるかもしれません。


でも私にとっては
自分のことを理解してくれてない人と
時間を共にしている方が辛い
ということが多かったのです。


そんな人もこの記事をご覧になってる方々の中には多少いらっしゃるんじゃないでしょうか?


仮に居なくても、
その想像だけで私は少しだけ心強くなれます。


少し話がそれましたが、
簡単な私の今までの経緯を
お話しします。


私は福岡県のとある漁師町の家庭に生まれ、
お父さんはもちろん漁師で
三人兄妹の長男として育ちました。


幼少期から物静かで
割と消極的な性格だったと思います。


両親はおしゃべり好きで
声も大きく、耳への刺激が強い感じがしたからか
声を大きくして喋るのがいまだに苦手です。


小学校1年生で早速大便を漏らし
大変恥ずかしい思いをしましたが、
その時は子供ながらあまり重く受け止めてなかったのか
普通に学校に通っていました。


当然と言えば当然の行動をしただけですね。


そのまま6年間物静かな私は
通知表で「〇〇くんはいつも静かで・・・」
という私の中ではお馴染みの
先生からのコメントをもらいながら
12歳まで育っていきました。


中学に入ってからですが、
親の勧めにより、私は未経験からの
剣道部に入部しました。


毎日こんなキツいスポーツは
生まれて初めてだと思うような練習メニューでした。
(だいたいどの部活もきついんでしょうけど・・・わかってくれる方いるかな?)


練習に励みながらも、私は試合に出たところで
勝つことも極端に少なく、
その時は正直恥ずかしくてやめようと思ったことが何度もありました。


中学3年間の中で最もそう思った時がありました。


中学2年の時、また大便を漏らしてしまったのです。


しかも、そのタイミングは残酷にも
剣道部の合宿の時に
同じ部員の女の子に告白して返事待ちの時だったので
その時は本当にもう部活辞めたいって言うか


死にたい


って思ってました。。
この世から消えていなくなりたい。
この世界がゲームだったら、1個前のセーブポイントからやり直したい・・・


そんな私の願いは、当然ながら叶えられることもなく
私は学校生活を続けざるを得ませんでした。
学校に行きたくないと言っても
親はあまり話を聞いてくれず学校に行かされ
部活も、先生や親が辞めさせてくれませんでした。


学校の中では他の子たちと
すれ違う時も、私を避けるように歩き、
「くせっ」と後ろから声が聞こえる。


今思えば、「子どもとはそう言うものだ」
なんて言えそうですが、
当時の私としては毎日心を引き裂かれるような思いで、
「これがいつまで続くかわからない」と言う絶望があり、
「自分はなぜこんな大変な思いをしなければならないのだろう」
と向けようのない悲しみと怒りを感じていました。


その当時はヴィジュアル系バンドにハマっていて
叩きつけるような激しい音楽によって癒されて?いたのだろうと思います。
学校生活はたいして変わることはなかったのですが。


そんな暗黒の中学生活も、終わり頃には
何人か僕と話してくれる人たちが周りに居てくれて、
何とか人並みに中学を卒業できたような気がします。


高校では大して関心もなかったのに
「友達が行くから」「就職率100%だから」という
薄っぺらい理由で工業高校の電気科に入学し


“クラスに女子がいない“という一般的な男子としては
青春を棒に振ったような人生の選択でしたが、
ユーモアあふれる友人たちに恵まれ、3年間無遅刻無欠席で
学校に通うことができました。


就職率100%の高校に真面目に通いながらも
「私は工業のことなどまるで興味がないのだ」と言うことを悟り、
電気科の科目で欠点を取ることが多く
次第に「機械を見ながら仕事したくない」という気持ちが強くなり
進学することに決めました。


親の期待を裏切り、
進学した先は医療福祉の専門学校。
当時自己啓発書を読みまくっていた私には
社会福祉“という言葉が深く刺さり、
ソーシャルワーク科に入りました。


座学に加え、介護施設やその他病院などでの実習もあり
緊張感のある3年間だったと思います。
クラスメイトは10人程と少なくはありましたが
仲は良かったので卒業まで楽しく過ごすことができました。


卒業してからは、精神病院に契約社員として入社。
専門学校の3年生の時に精神科の科目があり、
精神科のデイケア等で経験を積むと
精神保健福祉士の試験を受けれるということで
その職場を選びました。


ただ、その精神病院での勤務は私には合っていないような気がして、
よくいう理想と現実が違うパターンですね。


そこで働く意義が見つからないまま、
精神科の急性期病棟で看護助手として身を置き、
たまに精神科デイケアで実習させていただくという感じでした。


そういった形態で働いている中で、
精神保健福祉士を取る意義を見つけられず、
純粋に精神科医療の中で、
一つの歯車として働いているイメージが湧かなかったのです。


いっぽう、人生の意味やこの世界のこと、
いわゆる哲学的なことはめっちゃ考えていて、
その考えがそのうちに
今でも説明に困るのですが
「何でそういう考え方するの?」っていうぐらいに
“妄想“と言われる域までいっていました。


例えば、
「私が咳をすると、それはどこかで誰かが人の悪口を言っている証拠」
「自分と目が合うと、その相手が何かしらのカルマを負ってしまう」
とか、今振り返っても何でそうなるの?笑
っていうぐらい意味がわかりませんが、
当時の私としては、意識の力が強くなるとそうなるという理論だったみたいです。

 


ストレスもあったのかも知れません。
詳細には言えませんが、その当時、
職場で大きなミスを犯したり
付き合っていた彼女に二股をしていたことを打ち明けられたのと
なんとその相手と結婚するということだったので
私は本当に訳がわからなくなりました。


「俺はどこで何を間違ったんだろう?」


その時私は、強くそう思いましたが、
何をどうすべきか分からず、
哲学的に「自分は真理に辿り着いたから、もう死んだっていい」
ということから何度か自殺企図を繰り返しました。


車で走行して電柱にぶつかったり、
多量服薬かましたり(内容は風邪薬とか)
三日間飲まず食わず、不眠とか、
気が向いたらいつでも切腹できるようにと枕元に包丁に置いて寝ていたりと
実際に実行する勇気はなかったですが、
本当に病んでいたと思います。


当時一人暮らしをしていたのですが、
アパートの駐車場に私が契約していた場所
見知らぬ車が数日間止まっていたもんですから、
私にはそれが「自分に対する重要なヒントがあるのではないか」
と謎に思い立ち、
アパートに備えてあった消化器でその無断駐車の車両の窓ガラスを叩き割り、
車内を詮索するも
大したヒントは見つかりませんでした。


プリズンブレイクを以前に観ていて、
確か主人公のマイケルには“潜在静止の機能障害“
みたいなのありましたよね?
知ってる人いるかな笑


とにかく、余計な考えが止まらないんですが
そのマイケルに影響されてか、私にもそういう気質があるんだろうと勝手に思い込み、そういうド派手な行動に至ったわけです。


何も大した発見ができなかった私は
疲れて真冬の駐車場で寝てしまいました。


朝になると私は救急車で運ばれ、一度総合病院に運ばれましたが、
確かすぐに精神科の病院に措置入院になったと思います。
(すみません、記憶が曖昧です。)


その時も私は親に迷惑をかけてしまい、
改めて居なくなりたいと思っていました。


何もまだ親孝行も出来ず、
迷惑ばかりかけて、入院中も自分の存在意義がわかりませんでした。


「俺の人生って何なんだろう・・」


そんな考えはいまだに浮かびますが、
マイナスの感情はないです。
むしろ前向きで興味の方が強くあります。


しかし精神科病院に入院した時の私は
「まさか自分が入院するとは」
「人生終わった」
とセルフイメージはかなり下がっていました。


措置入院自体は確か1週間弱ぐらいで、
その後は急性期病棟で3ヶ月ほど入院していました。


その中でさまざまな人と出会い、
入院に至るさまざまな背景を知ったり、
なぜか居心地が良くて、
私が退院する時、
たくさんの患者さんが見送ってくださって、
「もうここに帰って来ちゃダメだよ」
って言われたのは鮮明に覚えていて、
私は恥ずかしながら大泣きしていました。


とりあえず、この22歳までのエピソードで大変長くなってしまいましたので、
今回はここまでとさせていただきます。


このような長文、読んでくださいまして
誠にありがとうございます。